裏表のない人 | Polyhedron

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速水が思った事を書いていきます。twitterを始めたのでこちらはほぼ廃墟かも。

注:以下の文章で、「人格」という言葉を何度か使っていますが、正確な使い方ではないので、注意してください。

以前、「裏表のある人」という記事を書いた。
一個の人間が持つ複数の人格は、身の回りの情報を、より効率的に簡単に処理するために、次第に統一されていくのだ、という内容。
最近の自分も、どうやらその方向に進んでいるようである。

人間には、いや少なくとも自分という人間には、限界がある、ということを、先学期の成績を見て改めて痛感した。具体的に言うと留年は確実になったのだがまあそれはいい。
先学期は、全ての事に対して一所懸命になろうとして、処理しきれなくなり、結局何もできなくなってしまった。
こういう困難に陥った時の解決手段は簡単だ。手を抜けばいい。
手を抜くとして、まず挙げられるのが、複数ある人格。これを統一してしまおう。
そういう流れで、今の自分は裏表がなくなりつつある。

これが、大人になるためのプロセスの一つである事は理解していたつもりだ。
一方で、元は別々だったいくつかの絵の具を、混ぜ合わせてぐちゃぐちゃにしてしまったような、なんともし難い後悔の念もある。
そのことの善悪を論じるつもりはない。単に、以前の人格と同じ思考ができるかどうか、それだけが不安なのだ。
中学の倫理だったか、「かもめのジョナサン」という教材を通して、アウフヘーベンについて学んだ覚えがある。

アウフヘーベン【(ドイツ)Aufheben】
ヘーゲル弁証法の基本概念の一。あるものを否定しつつも、より高次の統一の段階で生かし保存すること。止揚。揚棄。(Yahoo!辞書 大辞泉より引用)

人間が複数の人格を混ぜ合わせて一つにするとき、いつでもこのように「生かし保存」できるとは考えにくい。
かといって、せっかく自分が何年もかけて熟成させたものを、何かの形に残さないまま、闇へ葬ってしまうのは、いくらなんでももったいない。やはり、どうにかして「生かし保存」しなくてはいけない。
それが、今の自分のmotiveの一つである。